今自分が観劇に選ぶ舞台とかの傾向

 これまでは無酸素状態のなかで息継ぎするように、特段楽しくもない日常の中に楽しいことを求めて楽しい時間としてだったり、ミーハーを称して興味の赴くままに演劇やエンタメを買ってきたりしてきたのだけど、そうじゃなくなってきた。それが良いのか悪いのかわからないしそれはまあどうでもいい。もちろん少なくなったとはいえ今でもただただ楽しいを求めて買うチケットもある。

 今の自分が何を基準に見る作品を選んでいるかを考えたときに、見終わった後の自分に宿題を残すような作品を選ぶことが多くなったと感じる。具体的には、社会的な問題、具体的には戦争、差別問題などを扱った作品。その宿題に、観た後の自分が実際に取り掛かかれているかというと、その時見た感想さえまとめられないままのものが多いのだけど(だから今年はちゃんと残したいと思う)。でも感想は残ってなくてももちろん心にひっかかることやきっかけは多ければ多いほどいいと思う。

 自分が見たくないものは、見ないで生きることができる。本でも映画でもドラマでもテレビでもそう。演劇は特に、お金を払ってチケットを買ってみないといけないんだから猶更そうかもしれない。

 でも、主に歴史において振り返ると過ちだったのでは?と思える選択のこととか、見ておきたいという使命感みたいなものがあり、そしてそれを作る見事な役者さんや脚本演出、たくさんの要素があり、見なきゃと思わせるのだけど。(というかそういったテーマを生半可な覚悟でできないということもあると思う)。

 それと、本やドラマは見ているうちに途中で中断できてしまうのだけど、劇場に入って座って幕が開いたら、もう逃げられない。舞台と自分しかいない。それが一番の理由かもしれない。一番集中して入り込める。見るしかない。自分をそういう状況に置くことができる唯一の装置というか。うまい表現ができないが。

 見たくない過去やつらかった出来事、事実を見つめなおすのは疲れるし、たぶん楽しくない。今は特に、誰もが不安定なご時世で、見ていてつらい、疲れるような作品は敬遠されるものかもしれない。それを見られるというのはまだ心に余裕があるのかもしれないし、人に無理に進めたりもしない。でも自分が生きていなかった過去を見つめなおすような作品を作り続けている人たちに敬意と感謝を示したい。示すために観ていきたいと思う。作っている人たちもその時代を実際に生きたとは限らないのだ。それってすごいと思う。危険でもあると思う。それでも私は作っている人をものを信じて考えたいと思うわけだけど。

 演劇って無限だなあと思う。そして作るのはもちろん想像力の必要なことだし、見るのも、感じるのも想像力がいる。体力もいる。動けるうちにいろんなものを見たい。そして考えが今後変わるとしても今の自分の考えを残せるようにしよう。